宇宙船の中でぼんやりと窓の外を眺めるレンの髪をイチヤが優しく撫でる。
「本当に良かったのか?」今ならまだAIへ戻る事も可能だ。
「うん。いいの」コテッと自分の肩に頭を乗せてくる様の可愛らしさに頬が緩む。
「おいで」と自分の膝の上で横抱きにする。赤ちゃんの頃からこうして何度もこの腕に抱いてきた。その度に得も言われぬ幸福感や安らぎに包まれる。
イチヤにとってレンは形容し難い程愛おしく、大切な存在だ。妻の事は勿論愛していて大切に扱っているが彼の中ではレンとは比較対象にはならない別次元の話なのだ。
「何か、あったか?」友達がどうのというのは建前だと思っているが、本当の理由など聞くつもりはない。
どんな理由であれ自分といる事を選んだというだけでイチヤは満足だった。ただ悩む事があるのなら相談してほしいと思っているだけだ。
しかしレンは「ううん」と首を横に振る。ならばそれ以上はレンには聞かない。イチヤがその気になれば知る手段などいくらでもある。
気持ちを安らげてやるのが先だと額に口付け、ゆるく抱きしめてやると力を抜いて体を預けてくる。その無防備な様子に目を細めた。優しい沈黙が空間を支配する。
だがその沈黙は長く続かず、1本の電話によっていとも簡単に破られた。イチヤの秘書がレンの父親から電話が掛かってきたと告げたのだ。
レンの体が強張るのを感じ取り、部屋の電話に繋ぐよう指示しながら背中を撫でてやる。
繋がって最初に目に入った光景がイチヤに膝抱きにされている我が子、というものに一瞬眉を顰めた後イチヤに会釈をしたレンの父レイジは視線をレンに移し『連絡もせずに2日も家を空けているそうだな』と厳しい口調で言った。
『その上に突然旅行に行きたいなどとイチヤ君に無理を言って、我儘が過ぎるとは思わないのか?』家でのレンを知らない者だと適当にかわすか、言い返しでもするのかと思う所だが実際はそうではない。
気弱な表情で父を見「お父様・・あのね」と言い辛そうに口を開くが『言い訳はいい、すぐに戻ってきなさい』と遮られ後の事は言えなくなってしまう。
「義兄さん、誤解ですよ。私の方から何度も誘っていたんです。それで仕方なくついて来てくれたんですよ」たまらずイチヤが割って入るとレイジは渋い顔をした。
『イチヤ君、大事にしてくれているのは有難い。が、君は甘すぎる』
「私はそうは思いませんよ。たとえ甘やかしが過ぎるにしても、この子の笑顔は私にとってはそれ以上の価値がある」しゅんとしているレンの肩を抱き、イチヤが笑う。溜息を吐いたレイジは『帰ったらすぐにこちらに寄りなさい。あとサクマに連絡を入れてやりなさい。ひどく心配しているからな』と言うとレンの返答も聞かずに通話を終らせた。
レンの肩を撫でながら「義兄さんに一言、言っておくべきだったな。すまなかった」と謝るとレンは緩く頭を振った。
「レンが急に言ったんだもん。おじ様は何も悪くないよ」俯いてしまった顔を両手で挟んで上向かせると額と額を付けた。
「レンだって何も悪くないさ。電話をくれて私がどれ程嬉しかったか分るかい?会議中にスキップしたんだよ?」クスリとレンが笑う。
「ホントに?」
「ホントさ。なあ?マキネ」と秘書に同意を求めると「ええ。証拠もありますわ」サッと携帯電話を取り出して撮影した動画を再生する。確かに、会議室の中をスキップして回るイチヤとそれを困った顔や苦笑いで見ている面々が映っていた。
「ホントだ」レンが声を上げて笑い始めるとイチヤも笑った。
レイジはイチヤの妻りんかの兄で、とても真面目な人だ。多少厳しい所はあっても厳格とまでいかない筈なのだが、実子であるレンに対しては何故か格別に厳しい。レンもそんな父に対しては強気な態度で臨めずに萎縮してしまうのだ。
そんなレンが不憫に思えて1度、直接抗議した事があった。するとレイジは苦笑して言ったのだ。「君には分らないだろうね。あれの父親でいるという心境が」その辛そうな悲しそうな瞳を見て彼にも何か深い事情があるのだと思ったイチヤはそれ以上立ち入るのはやめた。しかし自分はレイジに何と言われようとも、これからも好きなだけレンを甘やかしてやろうと思ったのだ。
途中寄った星で買い物をし、リゾート地として有名な星に着いたのは翌日だった。
「それでは、7日後に迎えに参ります」手続き等を済ませた秘書、マキネは頭を下げて立ち去った。
文字通り2人きりだ。2人で過ごすには十分すぎる程の広さのコテージの前にはプライベートビーチもある。
「疲れただろう?少し休むといい」中に入ると肩を抱いたイチヤが優しく言うが「泳ぎたい」とレンは言い、買ってきた大量の荷物の中から水着を探し始め、目当てのそれを見つけると着替え始めた。
乳房のないレンは男性用の水着でもいいのだが、女性用の方が華美で種類も多いのでイチヤはそちらがいいと女性用の水着を買ってやった。
「おじ様」セパレートタイプのそれは首の後ろで紐を結ぶ形になっていて、イチヤを呼んだレンがくるりと背を向けるとまだ結ばれていない紐が白い背中に垂れ下がっている。それを結んでやり、前から水着姿を眺めたイチヤはだらしなく目尻を下げた。
乳房はなくても、細くくびれた腰やすらりと伸びた手足のおかげで女性用の物を着ていても違和感がない。日焼けしないようにパーカーを着せてやりながら「可愛すぎて眩暈がするくらいだ」と額に口付けた。
そうして夕方までビーチで過ごし、夜は星空の下で食事をしてから木の間に吊るされたハンモックに2人で横たわった。
「レンは見る度に綺麗になっていくな。昨日見た時は一段と綺麗になっていて驚いたよ」星空を見つめる横顔を眺めながら言った。
「誰か・・好きな人でも出来たか?」前にも何度か特別に美しいと感じたのは恋人が出来た時だった。レンはチラリと視線を寄越し、ほんのりと頬を染めて頷いた。
やはり、と心中で言ったイチヤは残念であり、寂しくもあり、嬉しいとも思うという複雑な心境だった。いつまでも、誰のものにもならずにこうして手の届く所に居て欲しいと思う一方で、誰か好きな人と結ばれて幸せになって欲しいとも思うからだ。その時、その相手には”多少”の嫌がらせくらいはしてもご愛嬌で許されるだろうなんて事も思っている。
「幸せ者だな、相手の男は。うらやましいよ」と言いながらも自分がその立場ではなくて良かったと思う。もし、レンを恋人として好きになってなってしまったならそれは妻のりんかとは全く違うもので、抑えが効かないままに行動してしまうのではないかと何故か確信に近いレベルで感じている。そんな事になったら自分が取った行動でレンを苦しめてしまうかもしれない。
叔父として出会えた事を感謝せずにはいられない。妻であるりんかも、兄の子であるレンを可愛く思っているというのもあるが、イチヤがどれだけ溺愛しても叔父という立場を越えないという確信があるからこそ普段の行動やこうして2人きりで旅行に行く事も許しているのだ。
「そうだといいな」微笑むレンの表情に微妙な違和感を覚え、”あの事”でまだ傷ついているのだと察しがついた。レンは誰にも知られていない(この間リクに話した以外は)つもりだろうが、前の彼氏達との経緯は調べがついている。というか3人娘の雇用主がイチヤだった時期なので彼女達を使って呼び出し、直々に話を聞き出したのだ。レンが誰にも言いたくない程に傷付き、それでも相手の男を気遣って何事も起きないよう計らった以上はイチヤが何かする訳にもいかず、ただ知らないフリを続けている。
周りには単に我がままだとか気が強いとか誤解されている事が多いけれど、お前は自分が思っている以上に情が深い。それはお前の魅力ではあるが、心配な所でもあるんだ。
レンの頭を胸に抱き寄せて言う。
「男なら分るさ。お前に惚れられるのがどれ程に幸福な事か」
「大げさなんだからおじ様ってば」クスクスと笑うレンの顔を自分の方へ上向かせ、自分を写す大きな瞳を見つめた。
「そんな事ないさ。この綺麗な瞳でみつめられ、この可愛い唇とその甘い声で好きだなんて言われたら・・・」一瞬自分に言われるその時の様子を想像して息を呑む。慌ててそれを掻き消してにっこり笑って言った。「私が、その立場なら、幸せすぎて宙を飛んでしまうな」
「飛んじゃうの?可愛い」楽しそうに笑うレンを見て胸が熱くなる。いつもそうして笑っていて欲しいと願わずにはいられない。
飛ぶ、から徐々に話が逸れて違う話をしている間もイチヤは思っていた。
相手の男がどういう奴かは知らないが、お前が本当に好きな相手ならどうかそいつと幸せになって欲しい。けれども、もし、お前が傷付くような結果を招いたなら・・・今度はお前がどんなにそいつを庇おうとも私は絶対にそいつを許さない。
イチヤがそんな風に固く心に誓っている事など知る由も無いレンは、残りの日々のバカンスを心行くまで満喫し、7日後に迎えに来た宇宙船に乗って帰路に着いた。