幕間  リク

「お帰りなさい、久しぶりね。元気にしていたの?」数ヶ月振りに実家に寄ったリクを出迎えた母が微笑む。数年前に家を出てからは月に一度くらいの頻度で顔を出していたのだが、レンと再会して以降は何かと忙しく機会を逃していた。
「ああ、変わりないよ。この所少し立て込んでいてね」言いながら居間のソファに腰掛ける。
「仕事の方は変わった事はないってお父様は言っていたけど?」リクは現在父の経営する造船会社の系列会社で勤務している。もしトラブルなどあれば当然父の耳に入る。
「仕事じゃないよ。プライベートでね。ああ、そういえばレンに会ったよ」心配そうな視線を向けてくる母の気を逸らす為に懐かしい人物の名前を出す。
「レンちゃん?まあ、どこで?何年ぶりかしら。とっても綺麗になっているのでしょうね」レンを気に入っていた母の表情が明るくなる。
「偶然、街で会ったんだ。また母さんのパイが食べたいって言っていたよ」地区の事などは母には言っていない。銀行の頭取の令嬢で世間知らずな所があり、性格もおっとりしている母にああいう荒事の説明をしても理解されないだろうし、申し訳ないが正直な所その説明自体も手間だと思ったのだ。
「本当?嬉しいわ。是非今度連れていらっしゃい」
「うん。連絡しておくよ」その後は他の事に話題が移っていったのだが、ふと真顔になった母が「リクは今お付き合いしている方はいるの?」と聞いてきた。まさか見合いの話でもされるのだろうかと思いながら「いや、今はいないよ」と返した。
「そう」と寂しそうな笑みを浮かべる母に「悪いけどまだ結婚は考えてないんだ。でもいずれはしようと思っているから」と弁明じみた事を言うと一瞬きょとんとした顔になりその後笑われた。
「違うわ。そんな事を強要したりしないわよ」それを聞いてほっとする。しかしその後に言われた言葉に衝撃を与えられる。
「あなたは覚えていないみたいだけど、昔婚約しようかって話になっていたのよ」
「婚約って誰が?」
「あなたとレンちゃんよ」
「・・・・・・え?」母の言う言葉が意味の無い音としてしか認識出来なかった。呆然とするリクに構わず母は続ける。
「あなたが幼稚園に入った頃にねお父様とレンちゃんのお父様の間でそういう話になってね。もちろん私も嬉しかったから賛成したわ。あなたにも話したら喜んでいたのよ」どうにか脳を再起動させて話の内容を理解出来るようになる。
「その話が決まってしばらくした頃にね、シヅキのご当主が『親が子供の結婚相手を決めるなんておかしい』ってレンちゃんのお父様に抗議されてね。それがかなりの剣幕だったらしくてそれでまた話し合って、人生の伴侶は自分達で決めるべきだって結論に至って婚約の話はなくなっちゃったの」
「・・・・・」そんな出来事があったなど全く記憶になかった。しかし母は自分にも話をしたと言った。何故覚えてないのだろう。額に片手を当てて考え込んでしまったリクを見て母が「やっぱり覚えていないのね」と言いその時の様子を話した。
まだ幼かったリクには婚約とは言わず、約束をしたらずっとレンと一緒に居られると説明した。リクは「レンちゃんといっしょにのやくそくしたい」と答えたのだという。これもリクの記憶にはないが当時は会う度に楽しく遊んでいて、別れ際にはいつも次はいつ会えるのかと聞いていたらしい。しかし、婚約の話がなくなったと知らされたのが余程ショックだったのかその夜に熱を出した。そして熱が下がった後にレンとの”約束”の事を聞いても覚えておらず、それ以降レンと遊ぶ機会があっても以前程にレンに近づこうとしなかった。レンの方もそれをつまらなく思ったようで段々と会う頻度も減っていったのだという。
母の話が終わった後、適当な言い訳をしてその場を辞した。ガレージに停めてあった車に乗り込み1人になった車内で「思い出した・・・」と呟いた。ポケットからタバコを取り出し、微かに震える手で握ったライターで火を点けた。大きく息を吸い込み何処へともなく車を発進させる。

幼かったあの頃の気持ちが恋心だったのかどうかは分からないが確かに自分はレンに好意を抱いていた。リクにはレンは可愛らしいだけでなくキラキラと輝いて見え、その浮世離れした様子に絵本やアニメの世界から抜け出してきたのだと思い込んでいた。おまけにこの世界でレンが輝きを失わないように守ってあげないと、と訳の分からない使命感まで抱いていた。
だからずっと一緒に居られると聞いて喜んだのも当然だ。そしてそれが叶わないと知りショックを受けたのも。
忘れてしまったのは一種の自己防衛だったのだろう。自分が側にいなければ守ってあげられない、レンが大変な目に遭う、という幼いが故の根拠の無い想像と不安から自身を守る為に忘れてしまったのだ。苦笑して紫煙を吐き出す。
再会して以来、理由が分からないままにレンを守ってやりたいと行動していたのはこの幼い頃の出来事があったからだったのだ。
ならば次はやり遂げてみせる。レンが誰よりも信頼し、安心出来る存在になろう。側に仕える3人娘や従兄弟の兄、そしてイチヤよりも。レンが一番に相談するのは自分であるように。
疑問が解けてすっきりしたリクは新たに決意を固める。
すると不意に携帯電話が着信を知らせ、同時に車に同期されてフロントガラスに相手の名前が表示された。応答するよう操作すると「リク、今忙しい?」とレンの声がスピーカーから流れる。
「いや。大丈夫だよ。何かあったのか?」タバコを灰皿に押し付けながら答えた。
「ううん。ちょっと話したいなって思っただけ」少し甘えたような声音が耳を擽り自然と笑みが浮かぶ。
「今は家に?」言いながら現在地からレンの家までのおおよその移動時間を計算する。
「うん」
「わかった。20分くらいで行くよ」
「ありがとう、待ってる」
「ああ」通話を終わらせてレンの家へと進路を変更する。
レンにあの頃の事を聞いてみようか?急に態度が変わった自分を覚えているか、どう思ったか。などと考えながら、少し強めにアクセルペダルを踏み込んだ。